今日のぐるぐる

 続くはずだったエンデバー君はさらに延期のようです。アメリカの宇宙開発が…。夢はしぼむ一方です。やっぱり、前描いたとおり、人類の才能の限界でしょうか。

 「どうせ遊びなんだから」 と思ってる人は多いですよね。アイドルマスターのゲームシステムはわかりませんが、途中で手を離すと無駄になってしまう状況があるなら、途中で 「遊びなんだからやめなさい」 というのはどうかと思います。「全部無駄になってやり直しになっちゃうんでしょ」 なんて言おうものなら 「好きでやってるんだから、そんなの、またやればいいじゃない」 とでも返答されそうです。困ったものです。もし、それを相手に身をもって知ってほしかったら、例えば、その人が趣味でマフラーなんか編んでるのなら、できあがり寸前まで来た所で、そのマフラーを全部ほぐしてあげましょう。そしてこういえばいいのです 「マフラー作るのなんて、遊びでしょ? 好きでやってるんでしょ? なら、もう一回最初からマフラーを編めるんだから幸せじゃない」。

 宗教だったのか〜w アセンブリ言語コンパイラの話は耳が痛いな〜(@@*1

 個人的には、お仕事では、勤勉であってもなくても、能力がないとさようならです。勤勉であるかどうかは本人の能力を伸ばす手段であり、それに組織は原則関与しません。どんなに朝早く来て夜遅くまで仕事をし、執務中は一切遊ばない、無駄話をせずお仕事に集中していようと、成果が出ていなければ何の得にもなりません。「がんばってるのに」 というのは言い訳でしかありません。唯一、役に立つと言えば 「成果が出ていないので成果を出すための努力はしています。もう少し待ってください!」 という 「死刑執行までの時間稼ぎ」 になるという事ですね。
 努力をしてないようであれば、今後も改善されないという事で即死刑になる所が、努力してるなら何かが変わるかも知れない、と思うからです。…けど、コレも諸刃の剣。普段から、朝から晩まで必死にお仕事して、この成果であれば、つまりそれは、その人の全力。この状態で成果が出ていないというのであれば、この人の限界であると判断されて、問答無用で切られる可能性が高いです。
 なので、こんな会話は危険です。

ボス: A 君をクビにしようと思うんだ。彼のパフォーマンスは組織としての許容の限度を超えるよ。
同僚: そんな…。A くんは朝は誰よりも早く来て、夜は誰よりも遅く帰り、一生懸命仕事してるんですよ。しかも、仕事中はネットみたり雑談したりせず、しっかりお仕事に集中して、必要になったものがあれば本をたくさん買ってきて、週末なんかも遅くまで勉強して、ホント、まじめに働いてるんですよ。

 ありがちな、こんなフォロー。しかし、この会話は、こんな結果を招く可能性が十分にあるからです。

ボス: そうか…わかったよ。A くんをクビにすることに決めたよ。
同僚: え! なんで?! 彼はあんなに頑張ってるんですよ? 今言ったじゃないですか!
ボス: ヒントはキミが証言してくれたんだよ? 彼は目一杯頑張ってるという事だよね?
同僚: ええ、そうですよ?
ボス: 目一杯、ということは、これ以上頑張ることはもうできない。全力で彼は働いている。…そう、すでに彼は、すでに全力なんだ。キミは、そう、証言したよね?
同僚: ええ、しましたが…。
ボス: すでに全力。それはつまり、彼にもっと仕事に励んでもらいパフォーマンスを改善する、という余地がない、ということだ。アクセルを床まで踏み込んでる車は、もうそれ以上スピードは出せない、ということさ。

 彼が、一日中ネットサーフィンしてたり、カフェテリアで雑談してるような(←…)人だったら、もっと仕事に注力するように改善勧告をすることで、即クビは免れたんですけどね。組織がほしいのは、結果、もしくは期待できる結果です。努力は一円にもならないんですよ。むしろ、努力したことをアピールすればアピールするほど、状況は悪化します。
 むしろ、必要なのは 「いいわけ」 です。今回、パフォーマンスが出なかったのは何が、どう、具体的に悪かったのか。どうすれば、次回は改善されるのか、それをきちんと伝えることです。つまり、今回パフォーマンスが悪かったけど、これから先改善できるということを、説得するのが「基本」です。「全力で頑張ります」 とか 「申し訳ございません。」 とか、土下座してみたりしても、何の意味もありません。ここは体育会系の部活ではなく、職場なんですから。会社や組織が何を求めているか、考えれば、その求めるものを与えるようにすればいいだけです。
 私は何度も書いていますが "いいわけ" は大好きです。何か問題が起きたりしたときは、どんどん、いいわけをしてください。もし自分に責任がないなら、責任がないという理由と説明を、どんどん出してください。過失割合が低いなら、過失割合の低さを、理論的にアピールしてください。逆に言えば、その人に過失が全くなかったとしても、それをきちんと説明して納得させることができれば、アウトです。いいわけは悪だと学校や親御さんに教わっているかもしれませんが、必要なことです。是非習得することをおすすめします。
 ただし、そのいいわけ。稚拙なものだと、困ったことになることもあります。たとえば、理由として挙げた内容が 「それは十分予測できて回避できたでしょ」 「それをしたのは、そもそもアナタが原因を作ったでしょ」 というような、さらなるつっこみをされるようなものだった場合。具体的にいえば、自転車の無灯火。「だって、ペダルが重くなるんだもん」 とか 「他の人もみんなつけてないよ」 というのは、悪質ないいわけです。要は 「理由にならない理由をむりやりつけて、ごまかそうとする」 のは、責任逃れとして厳しく訴追されます。いいわけをしたその言い訳の示す内容が、再度当人に降りかかってくる問題の場合、無駄に問題を大きくします。こういうところは、無茶苦茶厳しいです。
 お話がそれましたが、話題にあがっている 「999人が合格して一人だけ入院してしまい合格できなかった」 場合は、当然のように悪い評価はつきません。もちろん、合格させるために無理なことを強要したから体調を崩して入院させたのなら別ですが、当人に関係ないものによる結果の悪化は、評価の減点対象にはなりません。
 この辺が、成果主義の誤解をしてる人に、たまにある問題です。日本企業の成果主義がだめなのは、きちんと評価をする能力がある管理職がいないからです。年功序列社会の中で、きちんとスタッフを評価するという能力育たなかったわけです。この場合も、当然、なぜ 1 人が合格しなかったのか、その中身を見て評価が決まります。
 成果主義は、結果がすべて、なんていいますが、中身も見ずに、本当に結果、この場合は 「合格数999人、でも一人、不合格」 だけを見るマネジメントは、US の管理職業務としては 「やってはいけない」 シリーズの、典型的な例です。この辺誤解して、成果主義は結果がすべてだから、一人不合格、という結果を持って判断する、と思ってると、それはきっとどこか、勘違いした日本人が書いたビジネス書から間違った知識を植え付けられたか何かしたかわいそうな人でしょう。
 私の職場で語られるマネジメントのなかで、やってはいけない、初心者にありがちなミスというのの一つが 「数値で評価をつける」 というものです。数値で評価する、つまり、999人合格、一人不合格、といった 「数値」 を使ってその人の評価をすることです。これはものすごく原始時代的な評価方法で、そんな評価であれば人間がいちいち手を出さなくてもコンピュータが全自動で評価を出してくれます。それなら、管理職が不要です。クビにしてしまいましょう。
 人間が必要なのは、数値ではなく、中身で見るからです。転職してきて、転職元があまりマネジメントが上手ではない会社・組織だった場合、ありがちなのが、パフォーマンスレビュー(評価面接?)の時に、自分のやったこと、成果を数値・グラフにして提出してくることです。ホント、よくいます。そういう人。でも、そういうのは、再提出となります。数値やグラフなんていうのは、あくまで「参考資料」でしかありません。価値を見いだすなら、アピールして説明した評価内容のエビデンス、という意味合いくらいですが、実際問題、まともな管理職なら、その手の数値データくらい、とっくに持っています。というか、管理職なんだから持っていて当然です。
 もちろん、数値データでしか評価できない職種というのも一部にはあるかもしれませんが、それはほんのごく一部であり、世の中に存在するお仕事の9割以上は、数値以外で評価できるものです。私の職場の、過去の奮闘記を見ると、先人はいろいろ試みられています。確かに、一時期、私の職場にも、あらゆるアウトプット、その人の仕事の成果を全部数値化して評価するというのが試みられた時期があったようです(私が着任する前のずっと昔の話ですが)。
 当然、これは無意味どころか正常な判定ができない、個人単位では後輩を招き、組織単位では全体としてのパフォーマンス、クオリティは低下するという結論にいたり、むしろ今では、数値を羅列することは、評価の基準にはならない、それを元に評価を下してはいけない、というのが、常識になっています。成果主義だから、999人合格、という点だけ見ていて、その中身、クオリティを見ないと思ってるようでは、「ガイシケイ」 あたりのカルチャーショックを誇張表現されたドラマやテレビの見過ぎでしょう。
 従って、まともに機能している「成果主義」なら、999人合格、でも、一人不合格者を出したとしても、それは何の影響も与えません。「合格する可能性がある全員を合格させた」 というのが、評価の第一ステップになります。999人だろうが、888人だろうが、一人不合格二人不合格であろうが、そんな枝葉末節をいちいち取り上げてあれこれいうようなものではありません。
 まぁ、上の会話は極端な例で、実際にはあと、組織側からの教育や、適性診断とか、問題点の探索(人間関係とかに問題はないのか、など)なんかをいろいろ試す余地はあるわけですけどね。ただ、いずれの場合もこのケースでは 「本人の努力で改善してもらう」 という選択肢が消えている以上、選択肢を狭めており、追い込まれる確率が高くなっているという事実は変わりません。全力でお仕事してる。がんばってる。そう、全力。つまり、限界。
 ここで、もし 「限界ですか?」 といわれて 「いえ、もっとがんばれます」 なんて言おうものなら 「じゃぁ、さっきの "全力" でお仕事してるというのはウソですね?」 となって、大変まずいことになります。これは、意地悪ではなく、本当に自分の状態を正直に申告しているか、問題解決をしようとする意志があるかという、信頼問題に関わってきます。自分の状態や能力を実際以上に見せようとしてごまかそうとするのは、パフォーマンスが出ている・出てない以前に、職員としての基本要素である "信頼性" に欠けるので 「なおさらクビ」 ですね。特に私の職場では、信頼できない人間は、たとえ実力があってもあっさりクビを切られます。
 余談ですが、裁判では、その人の有罪、無罪、そして、罪の重さを問います。従って、その人が問題の発生を全力で回避するための努力を必死でしたかどうか、どのくらい反省しているかどうかというのは、判決を下す上での重要な判断となります。しかし、組織のパフォーマンス評価という意味では、それらは評価されません。そういう点が「成果主義」です。成果主義は、結果がすべて。ただ、その 「結果」 は、数値化して出てくるボリュームだけでなく、その中身、周囲に与えた影響、これからの職務遂行に役立つ種、残した結果の将来性などを総合的に判断して見るものをいいます。これが、裁判と組織の評価の大きく違うところです。
 裁判は、その人の犯罪の凶悪性を裁いたり被害者を救済したりするだけではなく、その人を更生させる目的があります。反省しているようであれば、処罰、罰金、服役の期間などは短縮される場合があります。なぜなら、反省しているのであれば、特別に長い期間の重い罰は必要ないからです。だから、事故の場合でも、その人が何がどう悪かったのか、反省しているのか、事故を防ぐ努力をしっかりしていたのか、ということが大きく評価されるのです。つまり、勤勉であったのに起きてしまった事故と、怠惰であった結果起きてしまった事故では、判決に大きな差が出るのは当然です。
 しかし、組織の仕事に対する評価というのは、あくまでその人に与えられた課題に対して、どれくらい期待に応えたかを、結果として評価・査定するものです。中古車を売るときに、どんなに車を愛していたかは、関係ないのと似ています。実際に車がどういうコンディションであるか、それによって評価が決まり、売値、つまり、報酬が変わります。目的が違う以上、裁判と組織の評価では、見られる部分が違うのは、当然のことですね。

*1:と言ってもそれを主張していた時代は、当然、どのコンパイラの最適処理よりも最適化されたコードを書く実力はありましたが。