今日のぐるぐる

 えーと、何を言ってるんでしょう。優秀な組織には "チームプレーなどという都合のいい言い訳は存在しません" よ? "あるとすれば、スタンドプレーから生じるチームワークだけ" ですよ?w まぁ、それはいいとして、ここで語られてるスタンドプレーというか成果主義というのはかなりレベルが低い物のようですね。
 そもそも、成果主義だからと言って、よほどおバカな組織でもない限り成果だけで全てを判断してる訳じゃありません。そもそも、そんな極端なのは成果主義じゃなくて、単なる「成功報酬制」 ですよ。確かに、成果主義の特徴をわかりやすくするために、少しエンハンスされた言い方をする場合があって、それが幻想とともに一般に広まったというのはあるでしょうね。
 成果主義は有効なものでですが、それは別に 「チームワーク」 を否定する物じゃありません。なんというか、排反事象じゃないんですよね。しかも、ここで例示されてる成果主義 「数値目標」 なんて書かれてますが、こんなの、成果主義の評価システムの中で 「やってはいけないイロハ」 の典型例です。評価能力が無く、ハイスコア主義に走る典型。そんなのは、成果主義を導入して何十年にもなる(&きちんと機能してる)組織ではとっくにわかっていて排除されているシステムです。
 専門性が高く、技術力が非常に高いエンジニアというのは確かに重宝されます。けど、私が何度か書いてるとおり、組織の人材というのは 「インターフェイス*1」 がきちんとしてる事がとても重要です。つまり、技術の偏差値が 70以上であっても、インターフェイスの偏差値が 40 なら不採用になるわけです。もし、インターフェイスが 40 で採用になるなら、そのためには技術の偏差値が 75 以上である必要があります。
 こういう人を雇った場合、ある程度インターフェイスがマイナスでもその技術レベルが相当高ければ確かに雇う価値が高い場合が多くなります。いわゆる 「神が降りてきた」 という形ですが、あまりなじみのない人に別の言い方をするなら、仙人というか、
人間国宝の頑固職人というか、そんな感じですね。口も態度も悪いですが、技術は一流なので、周りもそれを許容して上手につきあう場合もあります。
 けど、そういう人を雇って活躍して貰えるようにできる地盤を持つ組織というのはとても特殊な環境であり、はっきり言えばその辺の企業ではマズ無理です。一つには、企業地盤もあるでしょうが、特に日本企業(含外資)においては、そういう人をきちんとマネジメントできる、評価できる人がほとんどいません。雇ってももてあますだけで、本人も不満が募るだけで、そのうちトラブルが起り、ここで言われてるように 「ああいうヲタクは要らない」 なんていう事になっちゃうわけです。
 極端に言えば、こういう人も使いこなせないようでは、その組織が出来る事は知れているとも言えます。でもそれは、恵まれた先進国に生まれて成功した人間が 「ドンペリくらい毎日飲めないようじゃ終わってる」 と言ってるようで、それができる人はかなり限られてます。限られています…が、それを言い訳にして 「そんなの理想論だよ」 というのもまた問題なわけで、完全に真似は出来なくても少しでもそれに近づくようにするのが本来あるべき姿勢なんじゃないでしょうか。
 結局のところ、まだマネジメントレベルが普通程度の企業にて、無理して 「偏差値 75」 の神さまを雇う事にどれほど価値があるかによってくる事になります。果たして、そんな優秀な人を雇って優秀なマネジメントをつけてマネージできたとしても、それを活かす他のラインがあるのか、という事もあります。結局組織で動く必要があって、例えばものすごい CPU を設計する神様がいても、それを製造できる技術のある工場がなければ意味がありませんし、その工場にも 「その神の設計を実現できる神」 が必要になったりします。
 また、例え実現できたとしても、それが市場にそれほど価値があるか、という問題もあります。私も何度も 「スゴい技術だけど、世の中への登場にはまだ 20 年は早かった」 為に滅亡してしまった物、というのを目にしています。そんな物ばかり開発するすごい神様は、残念ながら例えマネジメントできても持て余すかも知れません。実際には、パワーセーブをしていただく事でそれなりに使えますが、そのポテンシャルの高い人を高価なお金を出して雇っておく必要があるか、という声が出る可能性もあります。
 さて、お話が逸れましたが、成果主義というのはこういう神様を雇う事ばかりではありませんし、本当の成果主義の出来ている会社で神様 「ばかり」 探している所はあまりありません。成果主義の求める物は、当然「組織全体としての成果につながる」成果が出せる人です。
 つまり、すごい技術がある人よりも、ちゃんと人間としてのインターフェイスが出来ている人良い技術者を雇った方がいいわけですね。これは、先述の 「マネジメントのしっかりした組織」 であっても同一です。神様は、そう何人も必要ないのです。
 そもそも、そんな、成果だけで何もかもが評価されるシステムだったら、大変な事になります。特に、人間的にレベルの低い社員ばっかり集めた所で 「成果だけ」 で判定するようになったら、たぶん、他人をけ落としたり裏工作をしたり、妨害工作をしたり不正をしたりと、確かにその人は「一番」になるでしょうが、他をけ落としての一番ですから、組織全体としては成果は上がってないわけですね。
 例えば、100m走でまっすぐみんなが走れば、10秒くらいで無事たどり着き、平均して10秒くらいになるでしょう。けど、足を引っ張り合って、ごちゃごちゃしての競争になったら、5分くらいしないと誰もたどり着かないかも知れません。そんな中たどり着いた1位は、確かに組織の中ではナンバーワンですが、結果的には組織は大損失をしてるわけです。
 かなり初歩的なお話ですが、成果主義を謳っている組織の中ではこういう事が起きないように、とっくに昔から対策が打たれています。なので、神様を否定はしませんが、誰もが神様を必至で目指すようなマネジメントはしていませんし、そんな事をしていたら失敗するのは過去の教訓を見ればわかっている事なんですね。なので、スキルが高くても協調性がない人は、採用されません。
 私の職場では、採用する時に 「神様採用」 以外は、能力と同時に人間性をかなりチェックされます。日本ではあまりない事ですが、ご近所や学生時代の同級生に調査が入る事も当り前にあります。どんな人とつきあってどんな人生を送ってきたのか。人柄を徹底的に莫大なコストをかけて調べられます。それほど、重要な事なんですね。ペーパーテストや暗記でどうにかなる採用試験なんて、全く当てにならないのです。
 さて、じゃぁ、こうして採用された人が、チームプレーをするようになるべきで、そうなっているかというと、そういうわけではありません。冒頭の 「スタンドプレーの結果としてのチームワーク」 は、半分シャレで引用しましたが、実際には半分は、少なくとも私の職場では「本当の事」だったりします。
 基本的に、一人一人がプロであり、独立した会社であるかのような責任意識、プロ意識を全員が持っています。なので、お仕事は自分で組み立てて自分で進めていきます。そして、自分で考えて動きます。けど、他の同じ事をやっている人や、関連してる人たちともちゃんと連携を取ります。これは、わいわいサークルみたいな 「チームだからみんなで頑張ろうね」 とあらかじチームという輪っで包まれた状態ではありません。
 確かに、組織表上はデパートメント、ユニット、デビジョン、チーム(カタカナで書くとなんかアレですがw)などいろいろなくくりがありますが、その中の活動はちゃんと独立してます。チームでそろって、ごそごそと動くような、チーム全体の意志が決まってから動き出すような雰囲気はあまりありません。一人一人が独立して活動していて仕事を進め、その結果連携を取ったり情報を交換したりする中で自然と発生するもの、それが「チームワーク」なんですね。あらかじめ一緒に動くように足並みを決められた「チームプレー」とは違うわけです。
 「チーワーク」ありきではなく、スタンドプレーの結果としてのチームワーク、とは、そういう意味です。成果を出す上で、個々人が自律して動き、その中で、共通の行動がある人とは手を組み進んでいく、お互いにそれぞれの目標を達成するために協力して動くわけですね。スポーツのようにルールと型にはめたチームプレーをさせようとすると、たいていの人は嫌がります。人それぞれのやり方やstyle、考え方がありますからね。そういう物を縛ってしまい、チームプレーだと押しつけて、同じようなやり方、同じようなスタイルと考え方を押しつけようとするのが、日本企業の支配型マネジメントですね。うちでは、そういう物はもはやチームプレーですらありません。むしろ、自分たちで自律的に思考と意志を持って動いていない集団・個人には、職員としての用がありません。
 当該文章の中で出てくる 「和気藹々はチームプレーではない」 と言うのがありますが、これも、スタンドプレーの結果としてのチームワークを考えれば、和気藹々とする事と、チームワークが機能する事は別の問題である事がわかります。中はいいですが、うちの職員は意見が対立した事ははっきり議論をしますし、自分の意思は表明します。
 私が何度か日記の中で書いてきてるように 「自分とことなる意見を持つ相手=敵」 としてすぐ論争になったり喧嘩になったり、または不機嫌になったり、自分をけなされたと意識するような事は、プロとしてあり得ない事です。当然そんなレベルの人は、いません。違う意見があれば、全員がむしろ「興味深い」物として耳を傾けます。そして、疑問が有れば遠慮無く質問します。
 その大量の質問の嵐を、なじめない誤解する人は 「自分が非難されてる」「みんなが自分を追い出そうとしてる」 と思ってしまい、生き残れません。自分と違う意見との対話は、自分の知識を深める「好奇心」を満たす楽しい遊びであり、それを否定するような人は、そもそも技術屋さん、研究者に向いていません。
 そんなわけで、うちの職員はみんな仲がいいです。和気藹々としています。けど、問題点を隠したり、違う意見の相手を「気遣って」意見を控えるような人はいません。むしろ、そういう人がいると、和気藹々さは消えてしまうでしょう。裏表がない信頼できる間だからこそ、和気藹々とできる、というのがうちらの基本的な考え方です。
 協調性がある事と、笑顔がある事は必ずしもイコールではありませんが、笑顔できちんと接する事は、インターフェイスの上での基本。職場で怒鳴ったり、机をはげしく叩いたりするような人は、先述の「神様」であっても論外です。一人の神様を持ち上げるために1,000人の職員が「生け贄」になるような職場は、不健全極まり有りません。笑顔があっても、反対意見を平気で言います。なぜなら、笑顔という感情表現と、意見が対立する事は排反事象ではないからです。意見が対立=敵=不機嫌、または叩き潰すために排他感情なんてなる人は、修行が足りませんので、職員としては適切とは言えません。
 いろいろと書いてしまいましたが、成果主義は今も有効であり、これからも有効でしょう。それを有効に活かすためには、会社や組織がきちんとマネジメントし、評価し、文化を育てていく土壌が必要です。そして、それはともすれば困難な課題かもしれません。しかし、元来成果主義こそが資本主義社会での当り前のシステムであり、その評価方法が個人単独での評価だと思ってるようでは成果主義の成果の判定方法の勉強が足りません。間違った成果主義を運用してるのですから、それが成功しなくて当然の事ですね。成果主義は自然な評価システムですから、これを運用できなくて正しいマネジメントが出来てるとは言えません。職員の能力をきちんと発揮して評価するためにも、もう少し踏み込んだ考えが必要なのではないでしょうか。

*1:人と人との接点の事。言葉遣いとか態度、人格的な物など、技術面以外の、人ときちんとつきあえるかどうか、そのスキルの事。