きょうのぐるぐる

 規則正しい生活。やっぱり重要ですね。朝食は、7時、お昼は12時くらい、夜は21時くらいと、一般的というか典型的な食事時間というのは、それなりに守る価値がありそうです。一日中グミを食べてるような私はまずいかも…。

 デザイン優先のサイトは困ったものが多いのは確かですね。やたらと重かったりとか、構造が悪いのでスクロールさせる時にすら CPU を使ってしまい、ガタつくのとか…。で、この話題。正直言って引っかかるのが 「古くヘタったディスプレイ」 についての記述。これについては 「考慮されなくても仕方ない」 でしょう。そういうのを使っていて文句を言うのはちょっといただけないというのが私の感想です。まぁ、この辺は 「800*600の解像度を前提に作るな! 世の中には 640*400 しか表示できない人間もいるんだ!」 とか 「画像を使って表現するな! 誰もが画像を表示できるとは(ry」 というモザイク時代の 「かわいがって主義*1」 の無駄な論争を思い出しますねぇ。

 日本語検索では、Infoseek でしたね。goo が出てきてからは Goo も使ってました。Yahoo! は登録された所しか表示されないので、暇つぶしでそのカテゴリのものが見たいなぁ、とぐるぐるする時だけしか使いません。確かに Google は検索の利便性を飛躍的に上昇させましたね。それまでは、表示される内容の関係性のなさと言ったら…。裏を返せば、Google が出てきてからは、個人が作ってる 「リンクページ」 の価値がぐっと下がりましたね。

 こちらの日記でも書かれていますが 「万人に当てはまる方法はないんですよね」 ということです。私は、失敗して嫌な思いをしてしまった事が原因で、手を引いた分野というのがいくつかあります。私は失敗する事は嫌いなので、失敗しないようにかなりの努力をします。失敗すると 「私には向いていないんだ」 と思ってあきらめるか、その失敗した嫌な感覚がトラウマになって、二度と近寄れなくなったりしがちです。もし、今のお仕事でも大失敗を経験したら、キャリアを捨ててでも野に下る可能性が大きいですね。私を教育する時に 「失敗させる」 を選んだら、大変な事になりますw 大学の頃なんか、その辺をすごくわかってくださっていた教授が上手に私のケアをしてくれたおかげで、今の私があると思って、今でもとても感謝しています。

 おおむね納得。働いて出世・成功する事は目的ではなく、手段です。本当にやりたい事を実現するためには、安定した生活や財産が必要になるので、仕方なく働くわけです。働く事が人生の目的じゃありません。ただ、やりたい事がない人、思い浮かばない人は、仕方ないので働く事を人生の目標・楽しみにしても良いかもしれませんね。趣味、やりたい事は私ならいくらでも沸いて出てきますが、そうでない人もいる、どう考えてもやりたい事が出てこない人っていうのはいるわけで。無理矢理趣味講座とか、趣味教室に通って無駄にしたり長続きしないよりは、お仕事というゲームを趣味にしても良いかもしれません。出世してお金が余ったら、慈善事業にでも寄付してください。そこ、ユイの仕事は趣味の延長とか言わないっ。

 コレに加えて、ありがちなのは 「人の話(相手の反応)を見ていない(聞いていない)」 と言うのがありますね。酔っぱらってるので、自分だけがしゃべってればいい、という状態になり、相手が言った事を聞いてないんです。お酒が回ると聴力が落ちる人も多いのでなおさら。相手の反応がないから、理解してないか、聞いていなかった、わかって貰えなかったと思って、話を繰り返す。もしくは、最初に話した時に反応がほとんどなかったため、本来なら相手の反応によって自分の記憶に、この人にこの話はした、というフラグがたてやすくなるのに、それができず、話していない、という印象を持ってしまったりします。これはシラフの時でも 「この人、またあの同じ話を繰り返すなぁ」 と思ったら、その話をされた時に、された相手の反応が乏しい事がほとんどです。

 こういう現象が起きるのは、いつもの 「お客様至上主義」 が原因。子供が遊具で怪我をしたのは遊具を設置してる公園管理者(区や県) の責任、というトンデモ発想。それは結果的に 「なら遊具をなくしてしまえ」 となるのは当然の流れ。もちろん、整備不良などで破損したり不具合があって怪我をさせたのなら管理者の責任ですが、変な遊び方をしたのなら怪我をしても自業自得。
 なのに、腰を低くしてご機嫌をとって反論できない公共団体や企業が一番の問題でしょう。個人の皆さん 「ひとのせい」 にして自分や子供の責任をなかった事にする前に、もっとよく考えましょう。企業や公共団体の皆さん、責任がない事ははっきりと突き返して断るのも、無駄な税金を減らして 「まともな」 区民・市民・お客様へサービス・義務を果たす方法ですよ。

 あれ、塩分の塊ですしね。あまり使わないので、一気飲みなんて悪夢だと思います。

 そういわれて本当に帰った事が何度かありますw こういう間接的・逆説的なものの言い方が生理的に好きじゃないので、やる気があっても一気に萎えます。これが、本当に任意で参加してるものなら、やる気がないのはアレですが、学校行事とかで無理矢理やらされてるものの場合、当然やる気がありませんから「やる気がないなら帰れ」 という命令には喜んで従うのは当然でしょう。素直に 「やる気を出してください」 と言えばいいのに、そういうひねくれた言い方をされると、なんだかイライラします。
 まぁ、後日呼び出されて相当怒られましたが、半日以上の討論の末、当の発言をした先生が 「言い過ぎた、その点は謝る。ごめん」 と謝るまで、謝らなかったのはいうまでもありません。私が謝る必要があるのは「やる気がなかった点」だけであり、本当に帰った事については私に非がありません。帰った事により行事の進行に支障が出たのは、そういう命令を出した教師自身にあります。
 当然、私も自分でそういう事をオフィシャルな場面で言った事はありません。そういう間接的なイヤラシイ言い方は嫌いです。もちろん、本当に 「やる気のある人だけがいてくれればいい」 という、藤太が必要とされる場合は言いますが。言葉に裏があるような、はっきりしないのは陰湿です。ハッタリの一種? イマイチ感漂います。裏を返せば、本人の言葉の信憑性にもつながります。「ユイがそう言ったなら本当にそうなんだよ」 という信頼性は、普段の私の言動の説得力にもつながります。
 本当に帰られて一番困るのは責任者である自分。強制参加のイベントなんかでやる気を出させるのも、責任者のお仕事の一つです。帰れと言って帰った結果の責任については、もちろん、帰る命令を出した責任者にあります。「まさか本当に〜とは思わなかった」 は事件・事故でもっとも通じない言い訳の一つですし。

*1:大げさに 「こういう人もいるんだから」 的な事を持ち上げて先端の環境を使ってる自分がすべてと思うな、的な、 配慮しないのは自分勝手だと主張する人たちの 「下位の人たちの事も考えて」 偏重主義の事。日本人はこういうのが大好き。「絶対ないとは言い切れない以上、考慮するのが常識」 みたいな。すでに死語かなぁ