今日のぐるぐる

 これは私は結構やってました(^^; 感想を書くというのは結構難しいもので、そもそも好きな分野でもない限り感想なんて意外となかったりします。好きな系統の作品であれば、涙も流せば感想文も山というほどかけるのは日記を見ていただければおわかりの通りですw けど、どうでも良い物や、むしろ苦手な物に関しては 「あ、そ」 で終わってしまいます。特に、精神論重視の日本文学は最悪でして…。
 中で多かったのはやっぱりこんな感じの。一応「感想」が入ってるから問題ないと思うんだけど学校からはハネられましたw

この作品全体から感じられるのは、明るいシーン、明るい展開であるにもかかわらず常に漠然とした暗さ、重さだ。どんなに明るい場面でも、何か頭の中ですっきりせず心から安心して喜びに浸れないような、そんな不思議な、一枚のセロファンを通してシーンを見るような感覚がプロローグからエピローグまでを覆っていて、私の気も安らぐことがなかった。(略)
こういった背景には、この作者が長年にわたり夢野久作の影響を強く受けて育ったことがあると思う。彼が作家になり初めてxxx賞を受賞してデビューしたとき、色濃く影響を受けていたのがxxxxという作品。彼はこの作品を書き上げるに当たって夢野久作のxxxを参考にしたと明言している。xxxxの中で主人公のxxxxがxxxxをするシーンがあるが、あれは夢野久作のxxxxのxxxxを意図的に真似をした物だ。
このような手法は、例えば、海のモンスターを扱った作品ならジョーズの名シーンと重ね合わせたワンシーンを取り入れることが、パイオニアであるジョーズへの敬意を表したもので、ハリウッドではたまにそういうものが見られる。この作品でも、私が読んでxxxxのシーンで連想したのが、国語の時間に教材として使われた夢野久作のxxxxにおけるxxxxのシーン。あとからこの作者が夢野久作の影響を色濃く受けてデビューしたことを知り 「なるほど」 と感心させられた。(略)
主人公がxxxxにおいて最期を遂げるシーンでは問い詰めた相手に対してxxxxという言葉と謎かけを投げつけているが、このシーンはむしろ話のリズムを崩し緊張感が失せてしまい、逆効果だったと思う。確かにこの主人公の動機と性格を強く印象づける最期のシーンとして作者としては強調しておきたかったのかもしれないが、その結果言動として不自然になるばかりか、追い詰められた主人公の緊張感までもが一息ついてしまう形となり、読んでいる側のはらはらドキドキ感、高揚感が失せてしまった。結果 「とうとう最後のシーン」 と盛り上がっていた私の感情もすっかり冷めてしまい、読み切る頃には、終わったときのあの一種の達成感がまるでなかった。むしろ尻切れ蜻蛉な感覚であり、なんとも後味が悪かった。
(略)
そもそもあのシーンで友達から差し出されたナイフを受け取らず拒否した時点で、元々この主人公の性格付けとして何度も書かれていた誠実な態度とは矛盾してしまい、主人公の位置づけが不安定になっている。かといって、作品の味付けとして、あえてここで彼が普段と違う行動を取ったことに深い意味を持たせていたり、何らかの心情の変化が読み取れるわけでもなく、あとあとこの件の謎が解かれることもない。
話の流れとして拒否しておかないと後々につながらないのはわかるが、こういった描写の統一感のなさは、人数が多いこのような作品の場合にはとかく人物関係や人物の特徴を頭の中で把握する際に混乱を招く原因になる。本を読んでいてその作品に浸りきれないもっとも大きな原因の一つに、誰が誰だかわからなくなり、関係と性格がつかめない、という物がある。
この作品でも 「あれ? 背が高くてまじめなのは主人公じゃなかったっけ?」「いや、それは叔父のxxx」 としばしば混乱をもたらすことがあった。これはひとえに、近い性格の登場人物に特徴的な行動の差異を機会を見て描写できていないことによると思う。登場人物にそれなりの特徴付け、書き分けをすることは、読み手のことを考えた場合にはとても重要なスキルだと思った。

などなど。書いているときりがありませんが、とりあえずこんなようなことを書いています。一応平易に書いたつもりですが、今の言葉で書いたので実際には小学生らしいもう少しぬるい単語と言葉遣いで書いています。最初書いたときは 「です。ます」 調だったのが、あとから「だ。」 的な言い方に帰られています。これは 「原稿用紙 5〜10枚」 と宿題が決められていたのに枚数を遙かにオーバーしちゃったのでごっそり削った影響でした。実際には、オーバーしてても良かったらしいですが再提出になっても困るのでけずっちゃったのでした。
 さて、この書き方は何が問題かというと、リンク先にある中では、作品の評論をしちゃってる点でしょうね。客観視点ではなく主観視点が必要だ、という点です。一応本人は主観視点であくまで個人的な感想でしかないわけです。他の作家さんとの比較は私が思い出したのを書いたのですから、私の感想です。エイリアンをみてプレデターを連想するような物です。これでも立派な感想だと思うんですけどね〜w(なお、連分で書いた夢野久作さんはあくまで例なので実際の感想文では違う人でした)。
 次の NG ポイントは、作品への批判。そう、学校(教育委員会)が求めてるのはあくまで 「共感」と 「感動」 なんですよね。この主人公最悪とか、作品自体いまいち、というようなネガティブな感想はダメなんです。ましてや小学生がプロの作家の作品を批判するなんて「生意気な」という感じもあるでしょうw
 リンク先の方も書かれていますが、求められてるのは、本を読んで人生がどう変わったか、どういう影響を受けたかです。別の読書感想文では、私は最初原稿用紙の半分だけで 「この作品は内容が薄く何が書きたかったのかさっぱりわからない。時間が無駄だった」 というような趣旨のことを書いたりしました。枚数が足りないので、その後、無理矢理、何がどうダメなのか、自分ならどう書いてどう展開させるのかを書いてしまいました。これは明らかに感想文ではありませんが、枚数を無理矢理書かせるからそうなってしまったのですw
 事の顛末は、意外な方向に向かったので、今回この日記を書いたわけですが、先述の例を挙げた長い感想文は、どういうわけか先生方の目にとまり、話題になっちゃいました。そして、校長室呼び出しを食らうことに!(Oo;
 感想文はよく言えば 「小学生が書いたとは思えないスゴい感想文」 ですが、的確に悪く言えば 「子供らしい素直さがないヒネた感想文」 であり、おそらくこの後者の方が正解でしょうw いずれにしても、他のクラスの先生、教頭先生、とうとう校長先生にまで上がってしまったわけです。
 幸い、怒られるために呼ばれたワケじゃなくて、全国読書感想文のコンクールに出そうという話になってしまったのです。結果からいうと出されなかったわけですが、この時はびっくりしました。親にも話がいってしまい、マズい事になったと思いました(^^;
 実際には大人が書いた物であればありがちな感想文でしかないわけですが、小学生が書いたという事ではびっくりされただけの話。私はどういうワケか、この手の 「人間の物としては普通だけど、この歳でこれをしたのはすごい」 的な取り上げられ方をすることが多く、喜んで良いのか悪いのか複雑な事象がありました。
 結果的には、読書感想文は、校長先生と教育委員会(たぶん)の人との話し合いの中で出されないことが裏で決まったようです。親もあまり詳しくは教えてくれませんでしたが、状況からしてそうなったようで、急遽取り消しになり、本来は用意されていない賞である校内の特別賞 「がんばったで賞」 的な扱いで終わります。
 理由の一つは、読書感想文の本が、課題図書ではない推理小説の部類に入る物であることです。課題図書以外でも参加部門が変わるだけで勿論問題ないのですが、推理小説は感想を書くのに相応しくないジャンル、という事のようです。明文化されて禁止されてなかったのは、当時小学生で推理小説を読む人はあまりいなかったからでしょう。
 先述の通り、求められているのは 「共感と感動」 であり 「この本で自分はどう変わったか」 です。ありがちなのが 「この主人公の行動はとうてい今の自分に派できない勇気のある行動で」「とても感動し、これから自分もそういう人間になれるように」 的なものですね。なので、大幅な感動を得られなかったばかりか、共感するどころか主人公の行動を批判したり、話の展開の不自然さを指摘したりするなどは全く読書感想文で求められる物から逸脱しています。
 私の場合特に怒られがちだったのが、課題図書をやった場合。昔から精神論が苦手なので、日本文学にありがちな 「泥水をすすって苦渋に耐えて、コツコツ努力して成功した物語」 みたいなのには批判ばかりw 丁稚奉公でいじめられながらも耐えて過ごし、ある日そのまじめさが主人の目にとまり出世したものがたりでは 「運良く目にとまったから良いようなものの、大抵は一生飼い殺しになるのがオチ」 みたいなことを書いてかなり怒られましたw
 結果 「読書感想文としてはとてもよく描けているけれど、読書感想文のコンクールの審査内容的に求められるものではないのでリジェクト」 という感じですね。校長先生もとても優しい方で、この点は何重にもフォローしてくれました。
 実際問題、私はコンテストの類は嫌いなのです。順位をつけて争ったり賞を争ったりするような物は今でも苦手です。だからといって、先生方が 「貴方の宿題をコンクールに出す」 と言われたら(当時の感覚では)拒否権はありませんでした。なので、コンクールへの提出が急遽取りやめになった時点で、喜んでいたのでした。
 そんな私の心情はつゆ知らず、提出取り消しになって慰めてくれた反応として、私は、泣いたりガッカリしたりするような態度を見せず、ケロっと平気な顔をしていました。その結果誤解されて 「ユイちゃんはエライね。大人だね〜」 ととても誉められてしまいました。実際には 「興味ないからどうでも良いどころか出して欲しくなかった」 だけです。
 帰宅後に親にその話をしたところ、怒られましたw 前にも似たようなことで 「別に1位なんか欲しくなかったし」 的な話をしたところ、結構怒られた経験があったので校長先生の前で本音は言いませんでしたが、やっぱり大人としては、小学生は何にでも夢中になって、入賞するかも知れないのに取り消しになったらガッカリしてほしいのでしょう。
 運動会でも、リレーのアンカーで3人抜いて逆転一位になったとき、出たくて出たわけでもなく、出ろと言われたからイヤイヤながら出ただけで、かつ商品が貰えるわけでもないwのでちっとも嬉しくなかったわけです。先生から 「よかったね!」 と言われたときに、別に嬉しくないしどうでもいい〜的な態度をしていたら 「みんな一生懸命やってるのにそんな事言っちゃダメでしょ」 と怒られたことがあるので 「別に嬉しくないし興味ない」 という事を先生に言ってはいけないことは子供心にもある程度はわかってました。
 親には 「"別に興味なかった"なんて絶対先生には言わないこと」 と口止めをされた上、興味がないという感覚自体も、怒られてしまいました。怒られたところでどうでも良い物はどうでもいいのでたいそう困った物です(@@ 興味がないことには全く冷めているのは、今も昔も変わらないようですw
 ただ、結果的にこれが影響しているのかどうかわかりませんが、国語の成績は A をもらいました(A〜D の相対評価)。普段は良くて B くらい。しかも、小学生のテストなんてデフォルトで100点ですから、何で成績表の差をつけてるのか当時も今も疑問です。入賞しなかったボツ読書感想文なのに国語で評価されたのは、今考えると 「政治的なアレですかね」 と大人になった自分が居たのでした(@@
 この手の 「特に成績として優秀じゃなかったのに最高評価を貰える」 のは国語の読書感想文と、あとは、音楽のピアノ伴奏でした。中学以降は読書感想文がなかったので国語は普通に戻りましたが、音楽だけはずっと最高成績でした。笛のテストとか筆記とかむちゃくちゃダメだったのにw
 いずれにしても、読書感想文で求められるの 「この本はすごい。この本で私はこんなに変わりました」 というドラマ。でも現実はそうそうそういう事はないですよね。つまり、読書感想文という名の創作を書かせるのが、この宿題の趣旨なのかもしれません(@@ みんなして、すごいと褒め称えて、この本で自分は変わった、すばらしいとべた褒めすることでそれが評価されるあたり、なんだか新興宗教の「大躍進会」みたいな感じでアレですが。